道治ブログ
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二度あることは…
昔々のその昔、高校の科学の授業中に、Nという先生から聞いた話です。N先生は確か生物の教師であったと思います。

私の郷里に近いある漁村に、近在ではちょっと有名なお爺さんがいたそうです。人物的には別にこれといった特徴もない普通のお爺さんだったようですが、何故に有名人だったかというと、その人は亡くなってから二度までも生き返ってきた人なのだそうです。
詳細は分かりませんけれども、二度とも親族や近所の者が集まって葬儀の準備をし始めていたというのですから、呼吸も脈も止まっているような状態に陥ったのでしょう。そうして周りが大騒ぎしている間に、パッチリ目を覚ましてきたらしいのです。事故なのか病気なのかは定かでありませんが、市街地から離れた漁村ですから、直ぐに病院に駆け込めない病人や怪我人も多かった筈であり、人の生死に接する機会も少なくなかったと思いますので、慌てて勘違いをしたというような可能性はあまり無いのではないかと思います。

どういう脈絡で授業を脱線して、そんな話になったのかは覚えていませんが、先生の口振りからすると初めてそんな話をする訳でも無さそうでしたし、どうやらその出来事に興味を持って、実際に当人に会って話を聞いたような感じではありました。お爺さんの語るところによれば、死んでいる?最中には、二回とも同じような夢を見たのだそうです。

その内容というのは…気が付くと、だだっ広いところにポツンと立っていて、見渡すと向こうに立派な造りの建物が見えたらしく、側へ行くと建物の周りにはしっかりした塀と門があったそうです。建物は三階建てで、窓か何かあったのか中の様子が分かったらしく、一階では男の人達が何かの仕事を熱心にやっていたとのことです。何をしてるのかは分からないけれども、とにかく真面目に働いていることは分かったそうなのです。二階では女の人達がやはり同じように何かの仕事をしているのが分かったそうです。そして、三階では子供達が楽しそうに遊んでいたそうです。
自分が亡くなったという自覚があったのかどうかは分かりませんが、お爺さんはこの建物に入って何か仕事をするべきなんだろうと思って、門をくぐろうとしました。すると一人の坊さんが目の前に現れて、無言のまま厳しい表情で両手を広げ、行く手を阻んだのだそうです。何で邪魔するんだろう?と訝しんで、しばらく押し問答のような状態を続けているうちに、坊さんの掌でドン!と胸の辺りを押し返されて、ハッと気付いたら、自分が死んだと周りで騒いでいる場面であったと語ったそうなのです。

そのお爺さんが三度目に亡くなったとき、周囲の人は「また生き返ってくるかもしれない」と話し合って、しばらく葬儀を待って様子をみたそうですが、三度目には生き返ってはこなかったそうです。お爺さんの話からすると、三度目には門に入って何らかの仕事に就いたのかもしれません。

N先生は、この話について特に解説はしませんでした。科学の教師という立場から何か言うべきようでもありますが、笑いながら「こういう不思議な体験をした面白い爺さんが居た」と言うだけだったので、今考えてみると面白い科学教師であったと思います。よく分からないことを無理に解釈しないのは、反って冷静な科学的態度だと思っていたのかもしれません。

臨死体験は時々話題になりますが、素朴で嘘の少なそうな、このお爺さんのような話は興味深いものです。実際に二回とも夢を見たのか、全く同じような夢だったのかどうかについては少しく疑問も覚えますけれど、本人に確かめられない以上はどうこう言っても仕方がありません。他では聞いたことがない独特の内容ですから、少なくとも一度はそういう経験をして生き返ってきたのだろうと思われます。
僧侶が出てくるのは、やはり生前に接した仏教の影響なのでしょうが、キリスト教徒ならば神父か牧師か、あるいは古の聖人とか天使が出てくるのかもしれません。人によってこういう宗教色があって、臨死体験で語られる情景が一様でないことから、生前の記憶に基づいた夢の類に過ぎないのではないか?、という考えもあるでしょう。
個人的には一種の夢といっても間違いではないように思いますが、普通に眠っている間に見る夢とはやはり何か違うのだろうとは思います。また、体験する情景や宗教云々は、死にかかった状態の深度とか、生前の意識の残り具合とかの兼ね合いによって微妙に変わってくるのではないか?という気がします。そうして、こういう生死の深いところにまで関わってくる種類の宗教というのは、やはり何かしらの意味があるのだろうと思います。

私がこの話を好きだなと思うのは、三階で子供達が楽しそうに遊んでいたという件です。私自身は特に子供に好かれる性質でも子供好きな性格でもないのですが、幼くして亡くなってしまった子等が、どこかで楽しく過ごせているとすれば救いがあり、何かしらホッとするところがあります。
| - | 20:38 | comments(0) | trackbacks(0) | このページのトップへ
前兆の話
昨夜も大きな地震がありました。以前から九州の火山が噴火しておりますし、どうも地下深くで色々なことがいっぺんに起こっているようです。

今回の東北地方太平洋沖大震災はエネルギーが途方もないものだそうで、専門の学者も想定外の巨大地震だと話しています。専門家に想定外といわれたら素人にはどうしようもありませんが、昔から大きな天災の前には様々な予兆があるといわれています。地震についても前触れの話は多く、今回の震災でも後から色々の話が出てくるのではないかと思われます。

台風などの情報は、人工衛星の発達により、時々刻々の情報が得られるようになりました。これは素直に科学の成果でしょう。しかし、地下深くというのはもっと厄介な部分があるようです。
地球物理学的なアプローチに限界があるならば、他の前兆研究をもっと真面目に取り上げても良いのではないかと思ってしまいます。前兆といっても、オカルト的な予知とかいう話になると面倒な議論を呼びそうですが、嘘の無い動物の行動であるとか自然現象とかならば、今の人類に分かっていないだけで、何らかの根拠があって特異な現象が起きる可能性はありますでしょう。
そう考えていくと、人間に予知能力なるものがあるとすれば、動物の一員であるが故に備わっているのかもしれません。ただ、人間には余計な「知恵」もありますから、純粋にそういう能力を取り扱って研究することは非常に難しくなりがちです。

関東大震災の時も、様々な前触れの異変があったと言われています。自然現象的なことでは、井戸の水が急に枯れたとか濁ったとか、海や湖が濁ったとか泡だったとかの話があり、素人考えだと地球活動に関係していそうな気はします。また、海から爆発音がした、発光現象があった、月の色や雲の様子があまりにおかしかった等という、因果関係が今一つ分かりにくいような話も沢山あります。
動物の行動では、沢山の犬が毎夜吠え続けた、ネズミが集団で逃げ出した、魚が大量に繁殖したり獲れたりしたというようなものがあります。昔から鯰を地震と関係の深いものとする俗信がありますが、実際に地震の前に鯰や鰻などが急に増えたり、おかしな行動をするという話もあるようです。
最近でも、普段は見られないような深海の珍しい魚が獲れたりすると「地震の前触れではないか」という人が必ずいます。今回の地震の前には、関東地方の海岸に沢山の鯨が流れ着いていたそうで、その出来事と地震との因果関係を考えようとする人もいます。

興味深いことに、関東大震災の頃には、同じようなタイプの地震だったらしい幕藩時代の安政地震を経験した古老がまだ生きていて、「安政地震の時もそうだった」と話すことがあったようです。
こうしたことを調べようとすると、膨大な情報を取り扱わなくてはならなくなるので大変だろうとは思います。また、何十年とか何百年に一度というような長い間隔がありますので、生の記録に多く接するには、人間の一生が短すぎるということが根本的にはあるのでしょう。
宮本常一さんの著書などを読みますと、非常に長い目で見た場合に、津波に襲われやすい地域は、被害を受けると一旦は高地に住むようになり、 しかし無事な日々が重なってくると野良仕事をするにも漁に出るのも大変に不便なので、段々と低地に移住していくということを繰り返してしまうのだそうです。それはとても自然な成り行きでしょう。人の暮らしは日々の積み重ねですから、滅多に起こらず、いく来るかも定かでない災害に焦点を合わせて代々暮らすのは極めて難しいことです。
しかし、千年に一度であるとか、想定外の巨大地震であるとか言われても、実際に起こってみると、その被害のあまりの大きさから、何とか前もって予見する学問がもっと進んでくれないものかと思ってしまいます。
| - | 19:58 | comments(0) | trackbacks(0) | このページのトップへ
大震災
大変な震災が起きました。
被災地の方々をお見舞い申し上げます。

阪神震災のときに、何故か数十分前に目が覚めて、意味が分からないでいるうちに長く大きな揺れが始まったのを思い出しました。最後の何秒間かは、経験したことのないような複雑な振動がきて、これはえらい事が起こっていると思ったものです。揺れている最中はどうにもしようがありません。
阪神のときは早朝の神戸を大火災が襲いましたが、今回は想像を絶するような大津波が被災地に押し寄せました。

救助にも復興にも途方も無い試練があると思いますが、これはもう国民全体の問題になるでしょう。しかし、日本はここからが強いと信じたいと思います。
| - | 00:07 | comments(0) | trackbacks(0) | このページのトップへ
八俣大蛇(その四)
かつての農村が治水や利水にどれだけ苦労したかは、水に関する人身御供の伝説が多いことでもうかがわれます。ヤマタノオロチに食べられてしまう運命にあったクシイナダヒメも、要するに生け贄になりかかっていたようなことなのでしょう。
以前の話の中で、蛇の妖怪が総じて強力な存在で、命懸けの対決になることが多いのではないかと話しましたが、それは蛇が水神と目されることと関係していると思われます。
人身御供伝承というのは全国的に散らばっているようですが、大昔から実際にどの程度行われていたのか確かめようもありません。今から考えると全く理不尽な沙汰という他ありませんが、水神との付き合いは切実であって、とにかく必死に取り組んだということは間違いないのです。

ヤマタノオロチを退治したのがスサノオであったのか、それともオオクニヌシであったのかは分かりませんが、出雲のリーダーが治水事業をやらなければならない展開は何度もあったと思います。それには国の安定や発展がかかっていた筈です。
外敵と対決することも英雄の大切な役割ですが、治水、利水も負けず劣らず重要であり、大がかりな土木工事には強力なリーダーシップが要りますから、やはり英雄的な事業です。
ちなみに、水害や雨乞い、疫病、あるいは戦勝、豊作豊漁等に関する重大な祭事を取り仕切るのも相当なリーダーシップが要ったと思います。今の感覚で行っているような単なるセレモニーや気休めの類ではなくて、大昔はどれも真剣に効果を期待して行っていたものだからです。

ヤマタノオロチが川と関係が深そうなものであるという特徴はもう一つあります。それは退治された後で、尻尾から剣が出てきたとされていることです。
出雲の斐伊川の上流は古代のタタラ製鉄が盛んだった地域として知られています。製鉄を業とする人々は、農村や漁村とは異なる生活のリズムや信仰をもって暮らしますから、外部からみると謎めいています。しかも製鉄そのものが不思議で恐ろしげなものですから、ヤマタノオロチという怪物を製鉄や製鉄民の象徴として解釈する人も多いのです。

個人的には、ヤマタノオロチという怪物が生まれてきた要素の一つが製鉄や製鉄民である可能性は十分にあると思います。しかし、水や川に全く関係がないとまで考えるのはどうかという気がします。製鉄だけに限った話になると、古事記の「高志」という部分を無視しなければならなくなりますし、民間信仰において、製鉄と蛇が直接結び付いていた痕跡がほとんど無いので、やはり苦しい話になってしまうと思います。民話等でも、蛇そのものは金気(かなけ)を嫌うものとする傾向の方がむしろ強いでしょう。実際の蛇類が生態的に金属を嫌うのかどうかは分かりませんが、少なくとも昔の人々の間では、蛇とはそういうものだと信じられていたようです。ですから、伝承の中で蛇が鉄と結び付くには、河川等が仲立ちをする必要がありそうに思えます。

娘がオロチに食われるというのは、製鉄民が村を襲って略奪婚をしたのだろうと考える人もおります。実際にそういう伝承が顕著に残っているのであれば興味深いと思いますが、個人的には聞いたことがありません。製鉄民と農耕民との間で、習慣の違いとか、川の汚染や山林の利用をめぐって争いは度々生じたかもしれません。しかし製鉄民といっても鉄は食べられませんから、製鉄を掌握していた地域の豪族が介在したとしても、最終的には鉄製品を食物に換えて暮らしていた筈なのです。貨幣経済や大規模な物流が発達していた時代の話ではないので、製鉄民が付近の農民と決定的に対立して得をすることは無かったのではないかとは思います。

川が昔の製鉄と関係するのは、大量に必要となる燃料=木材を運搬集積するのは川沿いが有利なことや、原料となる砂鉄の採集でしょうか。あまり詳しくは知りませんが、出雲の斐伊川辺りは良質の砂鉄がとれるそうです。オロチの尾から利剣が発見されたというのは、場所からすると成る程もっともなことで、ストーリーに沿って考えると、件の剣は鉄製だったのかもしれません。

この剣は大蛇がまとっていた雲気に因んで「アメノムラクモ」と名付けられ、珍しい物だということで、スサノオが姉神アマテラスに献上した、と記紀には記されています。同じ剣が後にヤマトタケルの活躍にもちいられ、やがて天皇家の三種の神器の一つ「草薙の剣」になったとされます。

この伝説をどのような印象で受けとめるかは人それぞれであろうと思われますが、由緒からすると至宝といって良いような品物が、神話の怪物に由来することはとても興味深いと思います。謎が多くて、真相は簡単に決め付けるべきではないのでしょうが、数有る物の怪伝説の中でも、ヤマタノオロチはやはり非常に巨大な存在であるようです。

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八俣大蛇(その三)
古代の出雲と、越と呼ばれた北陸地方に何らかの交流があったことは、「越の八口」や気多大社の伝承の他に、オオクニヌシとヌナカワヒメの神話にも痕跡をとどめています。また、二つの地域で同じ特徴の墓を造ることがあったことは、考古学的な発掘によっても確かめられています。
『出雲国風土記』には「古志郷」という地名もみえます。これはイザナミ神(スサノオの母親にあたる神)の時に池を造ったが、池の堤を築くために古志の人々が来て住んだのでこの地名になった、というように説明されています。また「狭結(最邑)」という地名の説明として、古志の「佐與布」という人が来て住んだからだと伝え、「佐與布」が来た理由は「古志郷」と同じとしています。
「古志」は「高志」のことで、福井県の北部辺りには「古志」も「高志」も地域を示す言葉として残っています。
これは、出雲と越との間で具体的な人の行き来があっただけではなく、越の人々が出雲の潅漑利水事業に直接かかわっていた記録として注目に値します。
実際のところ、越から出雲まで出稼ぎに来たのか、それとも連れてこられたのか、また土木が得意で来たのか、あるいは学びに来ていたのか、単に働かされたのか等の詳細は何も分かりません。時代を考えると連れてこられて働かされたと考える方が普通のように思われますが、「来た」「居た」というような淡々とした言い回しでしかないのです。とにかく出雲と越の間に水の管理のことで接点があったようです。

ヤマタノオロチの正体を考えるとき、オロチが毎年やって来てクシイナダヒメの姉たちを食べてしまって、今年もその時期が来た…というような筋立てになっているのは重要だと思います。前もって時期が分かるというのは規則性があるからであり、毎年というのは一年を基準としたサイクルになっているということです。それは季節に関係があるものだと考えるのが普通でしょう。
異族の侵攻活動も季節に左右されることはありますが、やはり自然現象の可能性を強く匂わせる話だと思います。

北陸地方は豪雪地帯として知られ、豊富な雪解け水がある上に地形が急峻なので、暴れ川が沢山あります。流域の人口が多くないので、映画の舞台になった黒部川以外はそれほど有名ではないかもしれませんが、常願寺川、手取川、九頭竜川等も、春先や梅雨の時期に数えきれないほどの洪水を起こしてきたと思われます。福井県の九頭竜川などは非常に意味深な名をもつ大河川です。

「九頭竜川」は、土石流を思わせる「崩れ川」という呼び名に当て字をして「九頭竜」になったといわれています。最終的なネーミングセンスには、明らかに外来思想が影響していますので、恐らく仏僧等がかかわって字を当てたのではないかと思われます。
現在の九頭竜川流域にはヤマタノオロチにぴったり当てはまるような伝承はないようですが、黒龍神社等があり、九頭竜という字を当てる背景としても、元から強力な蛇神のイメージがつきまとっていた可能性は強いでしょう。

定住して農耕に専従するようになると、河川の暴流氾濫は大問題です。大体において平野というのは、洪水により大量の土砂が運ばれ、かつ均されて出来るものですから、当たり前ではあります。その土砂というのは、水とともに川沿いが崩落して流されてくるもので、いわば大自然の作用です。
水が必要なので河川からは離れられませんが、洪水になると田畑も村も滅茶苦茶になり、命の危険もありますから、何とかしなければなりません。土木整備が行き届いた現代では中々ピンと来ないところがありますが、昔の農耕社会のリーダーの功績で、治水が強調されるのは十分過ぎるぐらいの理由があります。

気候風土が割と似ていますから、山陰地方も北陸と同じパターンで河川が氾濫するのに悩まされたことが度々あった筈です。ヤマタノオロチ神話の舞台になっている斐伊川も、川底が高いのでしょっちゅう水害を起こしてきたといわれています。川底が高いのは、流域の侵食と土砂の流入が大きいということに他なりません。
北陸との交流によって、その地には毎年のように暴れ狂う川が沢山ある…つまりは荒振る蛇神の本拠地である…というような認識があったとすれば、出雲の川が同じように暴れた場合には、越から強力な川蛇神がやって来たのだと考えたとしても、特に不自然ではないでしょう。
ほとんど定説に近いものですが、出雲の川を舞台にした怪物に「高志」が関係する理由としては、今のところ以上のような解釈がもっとも自然であるように個人的には思います。

古事記によれば、オオクニヌシが北陸と交渉をもった内容は、ヌナカワヒメという美女を求めていったことになっておりますが、あまりに呑気過ぎるということから、現代的解釈では領土や産物、労働力確保といった経済的社会的欲求だろうという話になりがちです。想像を逞しくすると、その他の荒振る水神を根本から何とかしなければならない、といった真面目で呪術的な理由が含まれていたかもしれません。

ヌナカワヒメは宝玉の翡翠と縁が深い存在とされ、今の新潟県辺りに勢力を持っていた豪族の象徴ではないかといわれていますが、今までの話の流れからすると、「ヌナカワ」=沼河という名前も相当に意味深ではあります。
| - | 12:21 | comments(0) | trackbacks(0) | このページのトップへ
八俣大蛇(その二)
スサノオというのは皇祖神アマテラスオオミカミの弟神とされていますので、それが事実だとすれば高天ヶ原系の神ということになります。ですから、ヤマタノオロチ神話の舞台は出雲とされていますが、筋書としては高天ヶ原からやってきた神が全面的に活躍する物語である訳です。
記紀神話では、オロチに食われる運命だったクシイナダヒメをスサノオが救いだして結婚し、出雲に住みつきます。その子孫の中にオオクニヌシという有名な神が生まれたことになっています。

オオクニヌシは出雲を舞台に成長し、国土を開拓した(…というか、天下を「造った」とされています)偉大な神とされており、出雲神話の主役のような存在ですが、オオアナモチ、オオナムチ、オオモノヌシ、ヤチホコ、ウツシクニタマ、アシハラノシコヲといった数多くの称号や異名を持っているといわれていて、謎の多い神様です。
古事記や日本書紀と同じ頃にまとめられた地誌である『出雲国風土記』では、スサノオとオオクニヌシの血縁関係は特に語られていませんし、ヤマタノオロチも出てこないのです。
ご存知の方も多いと思いますが、高天ヶ原は後に出雲に国譲りを強要することになります。そういった経緯から、オオクニヌシをスサノオの子孫とする系譜を疑う向きも多く、記紀のヤマタノオロチ神話は主役をすり替えているのではないか?という説が出されており、それはそれでもっともな意見であると思います。しかし、憶測だけで話を進めることを避けようとすれば、詳しいことは分からない、というしかありません。
オオクニヌシほどではないかもしれませんが、スサノオは出雲地方でも盛んに祠られている神で、オロチ退治のヒーローとして人気があるようです。

古事記では、ヤマタノオロチには「高志」という地名がついていて、「高志」からやってくるというように記しています。
「高志」というのは、一般的に解釈すると「越」であり、今でいう北陸地方にあたります。理由がはっきりしませんから、そっちの方角から異民族が度々攻めてきたのではないか?とする説もありますが、それほど説得力がある話でもなさそうです。
豊富な神話のみならず、考古学的な見地からも、古代の出雲は他の地域に比べてかなり拓けていて豊かだったと考えられますので、周囲から狙われても不思議ではありませんが、歴史の常識からいうと、むしろ生活に余力がある出雲の方から他所に攻め出すパターンの方が多かったのではなかろうかと思います。
何故に先進地域から後進地域?に攻め出すかを有体に考えると、領土を拡げるためか、労働力を確保するためか、あるいはその両方なのです。
先進地帯の出雲が各地に勢力を広げていったであろうことは、僅かにではありますが、痕跡が現代にも残っています。出雲のリーダーであったオオクニヌシが広範囲に散らばる古い神社の祭神とされていることも痕跡の一つにあげられるでしょう。

『出雲国風土記』には気になることが書いてあります。それはオオナモチが「越の八口」を平らげに行ったとか、「越の八口」を平らげて帰った、と読める箇所があるからです。
しかし、「越の八口」が何を意味するのか、それすら定かではありません。「八口」というのが特定の名称でないとすれば、「八」というのは「数多くの」とか、あるいは「全ての」という意味であろうと思われますが、何のことなのかはっきりしないのです。
京都に詳しい人は「京の七口」という言葉があるのを知っていると思われます。「鞍馬口」「丹波口」「竹田口」「粟田口」「荒神口」等は駅名や交差点の名前として今も残る地名ですが、京と地方を結ぶ道の出入口のことを「口」と呼んだのです。同じような意味を持つ地名は割と全国的にありますので、「八口」の意味の第一候補としては道の出入口であるべきように思われますが、出張して北陸の出入口を平定する意味が今一つよく分かりません。

富山県には「八口」や「八尾」といった気になる地名がありますけれど、特に神話に対応する伝承が残っている訳でもなさそうですし、太古の地名が必ず現代につながっているとは限りませんので、発音や字が似通った地名だけを手掛かりにして考えていくのはちょっと危険です。

興味をひくのは、能登の気多大社という古社に、出雲のオオナムチ神が主神として祭られていることで、社伝ではオオナムチの能登開拓や怪鳥悪蛇退治が語られており、悪蛇というのは大社付近の潟湖のヌシだったのではないかといわれています。
ただし、気多大社の奥宮にはスサノオとクシイナダヒメ(つまり記紀ではオオクニヌシの先祖になる夫婦)が祭られているので、やはり真相はよく分からないのです。気多大社の奥宮は「入らずの森」といわれる聖域の中に鎮座するもので、いくら朝廷に権力があったといっても、現地の祭神をすり替えることは中々難しいのではないかとは思います。

他に、「口」の意味を「国」や「港」「河口」等と考える人もあり、それぞれに説得力があるとは思いますが、文字や言葉の飛躍をしないと成り立ちませんので、何とも言えないというのが実際のところのようです。

ヤマタノオロチと「越の八口」とは、「コシ」と「八」というキーワードが共通している訳です。遺っている記録が少ないので飛び付きたくなりますが、あるいはそれが曲者なのかもしれません。
頭に「8」をつける言い回しは、「八重垣」「八雲」「八千矛」等と神話には頻繁に出てきますし、出雲が十分に大きくなった時代に、他の目立った地域勢力がそう沢山あった訳でもないでしょう。
「越の八口」は、ヤマタノオロチを考える上で忘れてはならないキーワードの一つだろうと思われますが、他の複合的要素を考えることも大事であろうと思います。
| - | 12:27 | comments(0) | trackbacks(0) | このページのトップへ
八俣大蛇(その一)
日本に伝わる蛇の妖物でもっともインパクトがあるのは、古事記や日本書紀の神話に語られているヤマタノオロチではないかと思います。
ヤマタノオロチはまさに大怪物というべきものです。神話ではスサノオノミコトの作戦にかかって退治されますが、最古級であり最大最強の蛇系妖怪といって過言ではないでしょう。その姿は八つの頭と八つの尾をもち、八つの谷と八つの尾根にまたがるほど巨大で、雲を身にまとい背中に木を生やした途方も無い蛇体であると描写されています。
日本神話において、もっとも勇壮な怪物譚が蛇のイメージをともなっていることは非常に興味深いことです。

8という数字は、古代の日本では「数多い」または「大きい」というような意味合いでよく使われています。そういう場合、中国では奇数であることが多くて、特に一桁でもっとも大きな自然数である9が多用されます。古の日本の感覚では、何故だかそれが9ではなくて8なのです。
単純に数量的な大きさを強調したいなら8より9が理屈に合うことに気付かなかった筈はないと思いますが、あくまでも8に拘る理由が何かあったのでしょう。個人的には、意味を離れて音だけで言葉を云々することはあまり好きではありませんが、「や」「やつ」というような発音が特別な意味をもっていた可能性もありそうに思われます。
ともかく、大体において8は肯定的な意味合いで使われていることが多いのですが、そもそもヤマタノオロチ神話は、スサノオノミコトがオロチを退治するのに振るった十拳剣(とつかのつるぎ)を除くと、8のオンパレードといってよさそうな話ですから、原初的な姿としては、ヤマタノオロチが必ずしも悪玉ではなかった可能性もあります。

ただ、前にも話しましたが、物事は時代背景(要するに人間の都合)によって事情が変わりますので、蛇神のような精霊的存在の善悪を議論しても仕方がないように思います。小正月に行われる綱引神事をはじめとして、民間信仰では藁縄などを蛇や竜に見立てることがありますが、地域や行事の成り立ちによって、それを悪玉とする場合もあれば守護神のように扱う場合もあります。

恐らく絶対神の決定版として発達し期待されたであろう西洋のGodも、やはり地域特性や言語習慣の癖がつくものですから、全時代全世界的に内容を浸透しきることは難しいのであり、逆にいえば一見して時代や地域習慣に縛り付けられているような信仰にも、学ぶべき普遍的な内容が無いとは限りません。その点に関しては、人類はまだまだ発展途上であると思います。

ヤマタノオロチの物語はスサノオノミコトが出雲の川沿いに現れたことから始まりますが、川沿いという舞台は恐らく偶然ではないのでしょう。オロチの猛威は直感的に河川の氾濫をイメージさせるところがあります。
インド辺りでも蛇神は川の象徴とされているようですから、そういう信仰が遠く伝わってきた可能性もあるでしょうが、必ず他から発想を借りなければ川と蛇が結びつかない訳ではありません。実際に河原の湿地帯には蛇類が多く棲むでしょうし、大地を長くうねって流れる川の様子そのものも、巨大な蛇の姿を自然と連想させるものがあります。


| - | 08:17 | comments(0) | trackbacks(0) | このページのトップへ
蛇という不思議な存在(その五)
日本人の祖先と蛇との蜜月期間はかなり長く続いたのでしょうが、やがて難しい時代が訪れたのではないかと思われます。これは場所による年代のズレがあっても割と全国的な時代の流れであり、ある意味で世界的な風潮だったかもしれません。
一般的な解説をみると、大和朝廷が支配を広げるにあたって各地の土着神を征服していく物語として語られていることが多いのですが、もっと大きな視点からいうと、農耕の発達と大いに関係があるのではないかと思います。

日本在来の蛇類は、そのサイズから言ってもネズミやカエル、小鳥等の小動物を常食しているものでしょう。だから、そういった獲物が多くいる場所に多く棲むのが道理です。
シマヘビなどは首を持ち上げて上手に泳ぎますが、水辺でよく見かけるのはカエルがいるからでしょうし、草むらを這っているのは小鳥の巣や野ネズミを探しているからであろうと思います。

教科書的な歴史では、縄文時代=狩猟採集、弥生時代=稲作というように単純化してテスト問題にしやすくしていますが、今に繋がる米作は既に縄文時代の終わり頃には部分的に始まっていたことが分かっています。
人間の本能なのでしょうが、その頃から水田や本格的な畑を開墾していく動きはだんだん不可逆的になってきて、蛇たちの聖地に踏み込む事態が増えてきたのではないかと想像されます。
大和朝廷云々といっても、いきなり強力な中央集権が進められた訳ではないでしょうから、当時の一般的な地方豪族が素直かつ熱心に、近畿大王家の手先をつとめるのは考えにくいことで、支配を広げるといっても、そう単純な話ではないと思います。
とにかく全国的に新たな耕地を拓きたい要求が大きくなってきたことが背景にあって、各地で古い禁忌にぶつかる場合が増えた時期があったのではないかと思うのです。そのために様々なトラブルや駆け引きが生じたでしょうが、昔からの掟を強引に変える際の新ルールとして、朝廷の権威が利用され浸透していったということなのかもしれません。
『常陸国風土記』にみえる夜刀神と開拓者との争い等は、そういう物語であるように思えます。

民話に多い水神の「ヌシ」と人間の攻防も、農耕の発達や耕地の拡大改良といったストーリーを頭におくと理解しやすいように思います。
これまでの話の筋からすると、本来的な蛇の聖地は沼地を含む湿地帯や川原等に多かったのではないかとは思えるのですが、だんだん沼や池、川そのものといった分かりやすいものが「ヌシ」の棲み家だと認識されるようになり、しまいには蛇=水神となっていったのかもしれません。
「夜刀神」の物語でも経緯が語られていますが、手付かずだった広大な聖地が人界の拡がりにしたがって次第に狭められ、山や池、沼や川といった目立ちやすい地形地物に限定されていったのは、蛇に縁の深い聖域だけの話ではなかったのでしょう。それにともなって人間側は祭りを盛んに行うようになったりしたようです。
また、「ヌシ」がとんでもない大蛇とされていたり、魚でもないのに蛇が水神とされていったのには、ひょっとしたら外来の信仰が影響しているのかもしれませんが、根強い原始信仰のベースがあったから定着したところはあるのだと思います。

見方を変えると、祭り上げたり、都合が悪くなって変えようとしたり、抵抗したり、折り合いをつけたりしてあがいてきたのは基本的に人間同士であり、究極的には人間の内面の葛藤であったに過ぎないのかもしれません。
けれども、自然状態に聖性を認めて全く忘れ去ることもなく、何とか折り合いをつけて生きていこうとしてきたのが古い日本人であったということは出来るのではないかと思います。
| - | 12:20 | comments(0) | trackbacks(0) | このページのトップへ
蛇という不思議な存在(その四)
個人的意見としては、縄文以来の神々の多くが動物としての蛇だと断言してしまうと語弊が多くなるように思います。
ただ、八百万といわれる中の、かなりの比率の神々において、蛇の存在感やイメージが象徴的で重要な要素であったことは、恐らく間違いないのでしょう。

大昔の日本の山野に住み着いた人々は、狩りもしたでしょうし、魚貝も捕ったでしょう。それとともに木の実等も集めて、常に食料を確保する努力をしたであろうと思います。やがて食料としての値打ちの大きいイモ類や穀類が伝わってきて、意図的に植えたり蒔いたりして収穫し保存するようになったと思われます。
こうなってくると、植物食性をもつ他の動物との戦争のようになってきます。夜行性の動物が多いので、ある意味で直接的な狩猟よりも大変な戦いでしょう。もっとも悩ましいのはネズミの害だったのではないかと考えられます。
皮肉にも農耕による食料の生産や備蓄が盛んになればなるほど、相手も手強くなってきて、人間自身の手でネズミから食べ物を守りぬくことは難しくなっていったのではなかろうかと思います。

縄文時代での猫の本格的な移入は確認されていませんので、ネズミの天敵は狐や小型の猛禽類、蛇等だったことになりますが、食性や生態からいっても、蛇のネズミに対する威力は特に頼もしいものだったのではないかと思います。
猛禽の類は警戒心が強いので人間の生活圏にはあまり近寄ってこないでしょうし、狐の場合は生き餌でなくても食べるので人間の食べ物を荒らす場合もあります。蛇に警戒心が無いということはありませんが、超マイペースで自分の獲物を追う習性が強いのと、家禽や卵の他には人間の食物に全く興味を示さないことははっきりしています。
そうして、人の住みかの近くは勿論、畑の周辺や山野でも蛇を大切にして、気ままに振る舞わせておく習慣が出来たのではないでしょうか。蛇の多い土地は荒らさずにそっとしておくということも度々あったと思います。
日本人の祖先はあらゆるものに神が宿ると考えましたが、土地や地理地形にもそれぞれの神がいるとものとしました。蛇が好んで棲む環境が重要な聖地になっていったり、蛇がその土地神の象徴のようになっていったとしても不思議ではありません。
思想的なことを深く考えていくと、蛇そのものが神様であると断定するのは危険ではないかとは思います。実際にはその自然状態をつくっている目に見えない意志を人格的にとらえて崇めたのではないかと思われますが、多くの土地の場合において、蛇が象徴として扱われることもまた自然な成り行きがあった、というのが真相ではないかと思います。

元々、誰もが知るとおり蛇の中には毒蛇もいて、無視しがたい独特の存在感をもっています。日本の場合でも、ネズミ云々の問題よりも遥か以前から、蝮などに対する謙虚な恐れがあって、蝮や蝮の多い地域を神聖視して敢えて手を出さない風習が出来ていた可能性も十二分にあります。

ただ、誤解してならないのは、我々の遠い祖先がネズミ達に悩まされて苦労したであろうことは想像がつきますけれど、ネズミを悪魔のように考えるものではなかったことは言っておかねばならぬように思われます。
淵源は縄文時代にまで遡るであろう出雲系の大国主神話でも善玉の役割で出てくる場面がありますし、その関連で後世になると富貴の象徴である大黒さんの使いと目されるようにもなっています。ネズミが寄り付くということはそれだけ蓄えがあるという含みがあるからかもしれませんが、とにかく害獣を徹底的に憎み切るということでもなく、何かしら大らかで脳天気なところがあります。
大国主神話では、逆に蛇が気持ち悪く恐ろしい存在という文脈で語られていますから、大昔の人が蛇を気持ち悪く思わなかったということではないのでしょう。今ほど多くも甚だしくもなかったかもしれませんが、やはり蛇が生理的に駄目だという人は少なくなかったであろうと思います。
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蛇という不思議な存在(その三)
言葉の意味が時代を経るに従って軽くなるということが一般的だとすると、太古の神名にみられる通り、もっと大昔の「ヌシ」は神様につける尊称であった可能性もあるでしょう。その称号が家に棲みついた蛇類のポジションに名残を留めていたことは意味深いと思います。少なくとも千数百年は遡れそうな感覚だからです。

先にもあげた通り、人間や場合によっては他の動物を「ヌシ」と呼ぶことがあっても、意味合いとしてはあくまでも比喩の類ではないかと思います。私らの地方の言語感覚を思い返すと、正当に家の「ヌシ」と呼ぶべきは、勝手に棲みついて睨みをきかす蛇のことであったように思うのです。

民話では池や沼、川の淵の「ヌシ」として大蛇が登場することが定番になっています。スケールはかなり違いますが、民話の場合の「ヌシ」は家の「ヌシ」と意味合いがよく似ています。
大抵の民話の蛇は水辺を支配して人身御供を要求する妖怪的存在であって、人類の叡智に駆逐される役柄が殆どですけれど、個人的な印象としては、妖怪としての蛇類はかなり強力な存在であることが多く、命懸けの物語が多いように思います。これは大昔の「ヌシ」は土着の神様のことであって、それは蛇のイメージと重ねられることが目立って多かったからではないかと思われます。

蛇や蛇の属性を神聖視したであろうことは、別に珍しい事例ではなくて、世界中の古代文明の痕跡に見受けられます。
日本でも記紀神話や風土記の伝説では、古来の神々の正体あるいは姿の現し方において、蛇類の形をとることが度々あったことは明らかです。前に話した「大物主命」も大和朝廷成立以前に神威をふるった格の高い古い神様であると考えられますが、記紀神話では蛇の姿で現われています。
記紀や風土記といった記録は、成立の事情からして当然でしょうけれども、大筋でいくと太古の蛇神が皇統神や王権に圧倒されていく物語が多いのですが、思い切りうがった見方をすれば、聖書の蛇が悪役そのものとして登場するというのは、絶対神の信仰を広めるにあたって、既に広範に信仰されていた蛇神の否定から始められたということも可能性としてはあるでしょう。

日本の有史以前においても、蛇が特別な動物として意識されていたであろうことは、縄文時代の土器等をみても分かります。
蛇の生命力や脱皮に象徴される再生力が神聖視されたのだろうという話や、その力を植物の豊作に借りようとしたのではないかという解説をよく見かけますが、直接的には季節の食物を採集して貯蔵するようになった段階から人類とネズミ等との飽くなき戦いが始まったと思いますし、程なくして蛇というネズミの天敵の存在が強く意識されだしたのではないかという気がします。縄文土器に蛇の文様とか飾り付けが盛んに加えられるようになったのも、中の食物を護ってもらいたい気持ちから始まったとすると、非常にシンプルで納得がいきます。
蛇の生命力や再生力をも意識した可能性は大いにあると思いますが、それはどちらかといえば後から連想された要素であって、最初から抽象的で難しい概念をもったと考えるのは少し無理があるのではないかと思うのです。
以上のようなことは、ある程度は伝播した可能性がありますけれど、ネズミと蛇が共に分布する地域において、世界的に同じような心理が起こったとしてもそれほど不思議ではありません。


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